二条城

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にじょうじょう

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その他の見どころ

  • 【番所】
    1626年(寛永3年)の行幸を描いた寛永行幸絵図のこの位置に番所が描かれていますが、現在の建物は、1663年(寛文3年)に建てられたことが分かっています。
    平時の二条城は、幕府から派遣された「二条在番」と呼ばれる武士たちが宿直・警護していました。1組50人の在番が2組常駐し、この番所は彼らの詰所の一つとなっていました。
    城内にはこの他、唐門前、北大手門周囲、西門周囲等、計12棟の番所がありましたが、現在残っているのはここだけとなっています。
    全国でも番所が現存する城は江戸城や丸亀城等わずかしかなく、貴重な建物です。

  • 【釣鐘】
    鐘は京都所司代(しょしだい)屋敷で火事等の緊急事態を周辺に知らせるために使われていました。
    京都所司代とは主に朝廷や大名を取り締まっていた江戸幕府の出先機関です。
    京都所司代屋敷は二条城の北に隣接して3ヶ所あり上屋敷・堀川屋敷・下屋敷(千本屋敷)と呼ばれていましたが、これらは下屋敷で使われていたものです。
    1867年(慶応3年)に京都所司代が廃止された後、二条城に移されたと考えられています。

  • 【移築された旧二条城の石垣】
    1569年(永禄12年)、織田信長が室町幕府15代将軍足利義昭を守るために築いた城の石垣です。
    1573年(元亀4年)、織田信長と対立した足利義昭は追放され、城は解体されて一部は安土城の建設に使われるなどしました。解体された城は一般的に旧二条城と呼ばれますが学術的な確証はありません。
    京都市営地下鉄烏丸線建設事前発掘調査で、京都御苑の西から遺跡が発見され、調査後、二条城と京都御苑に移築保存されました。
    築城当時、日本で活動していたキリスト教宣教師ルイス・フロイスの記録『日本史』には‘‘石材は不足していたので代わりに石仏などを粉砕したものが利用された”と記されていますが、それは実際にこの石垣で確認されています。

  • 【二条城障壁画 展示収蔵館】
    「二条城障壁画 展示収蔵館」は、二の丸御殿障壁画(重要文化財)を保存、公開するために、築城400年を記念して2003年(平成15年)に着工し、2005年(平成17年)10月に開館しました。
    展示室では、障壁画が御殿と同じ配置で、収納されている収蔵庫の一部をガラス越しに鑑賞できる画期的な設計となっています。
    エントランスホールでは、錺金具や、城内から発掘された埋蔵文化財等も展示しています。二条城の新たな魅力を発見してみてはいかがでしょうか。
    ※公開期間や内容につきましては事前にご確認ください。
    ※入城料とは別に入館料100円がかかります。(未就学児無料)

  • 【二条城外周】
    <平安京跡 神泉苑 西端線>(写真:左上)
    平成2年から平成5年にかけて実施された地下鉄東西線建設に伴う発掘調査により、平安京造営当時の神泉苑の東西幅が確認されました。ここはその西端線に当たります。

    <西門 外側>(写真:右上)
    西門の内側は非公開の場所でありますが外からはいつでも見る事ができます。
    橋のようなものはかかっていないので内側から出ると外堀に落ちます(;´∀`)

    <冷然院跡>(写真:左下)
    ここは、平安前期~中期、冷然院があったところです。弘仁年中(810~824)嵯峨天皇の離宮として造営されたのがはじめてで、林泉を前に数十の建物が建ち、天皇はしばしば行幸になって、華麗な詩歌の宴を行い、譲位後は、後院(上皇の御所)として使用されました。
    嵯峨上皇の後、冷泉院は皇室の重要な財産として伝えられ、代々天皇の離宮・後院ちして利用されました。
    建物は前後4回火災がありましたが、そのたびに面目を一新して再建され、その間に然の字を改めて冷泉院としました。
    天喜三年(1055)にとりこわされ、以後の状況は不明でありますが、平安前・中期の200年以上にわたり、代々皇室に愛好され、林泉の美をたたえた文学作品も多く、平安文化の一中心でもありました。

    <外堀>(写真:右下)
    二条城の外周は約2kmあり、城外でも上記の通り様々な歴史を感じる事ができます。余裕があれば外堀を散策してみるのもどうでしょうか(*^^*)

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