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【石造地蔵菩薩立像(内二躯が宮津市指定文化財)】
境内の多宝塔と向かい合うところに南に並んで二躯、その北に離れて一躯の地蔵菩薩立像が立っています。
雪舟の「天橋立図」にも描かれ、いずれも等身で左手に宝珠を捧げていて、右手は今は失われていますが錫杖を持っていました。
南の一体は最も保存がよく、背中には「応永三十四年(1427)に三重郷(中郡大宮町)の大江永松が発願して造立した一千体の地蔵のうちの一体」と銘文に刻まれています。
中央の一体は顔や両手先に傷があり、銘文に年号は有りませんが他の二体とほぼ同時代の制作と思われています。
北の一体は頭部を修理されていますが、体部の衣文には優れた彫刻技術が見られ、銘文から竹野郡恒枝保の三上因幡守の発願で、1432年に造立されたと知られています。
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【鉄湯船(重要文化財)】
現在は手水鉢として使用されていますが、もとは寺院の大湯屋で寺僧の施浴に用いる湯船として制作されました。
底の中央に排水のための穴が開いた盥の形をしていて、内部の側面にある鋳出銘から、この湯船は興法寺(弥栄町)のものであったことが分かります。
鎌倉後期に活躍した河内国(大阪府)の鋳物師の大工山河貞清が制作したと考えられていて、この時代の古式の湯舟が遺っているのは大変珍しく、中世鋳物資料として全国的にも貴重な遺品となっています。
それ程昔のものが今も現役で使われているなんて凄いことですよね(●^o^●)
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【石造宝篋印塔(宮津指定有形文化財)】
この石塔は和泉式部の一首
「いつしかと待ちける人に一声も 聞せる鶏のうき別れかな」
の歌塚と伝えられています。
「丹哥府志(たんかふし)」には丹後守藤原公基が、日置金剛心院で和泉式部が書捨てた和歌を持ち帰り、なみだの磯(涙が磯)に埋めて鳥塚と呼んだそうです。
その後1492~1501年頃に、砂に埋まった塚を掘り出して文殊堂の傍らに建てたのが今の歌塚です。
まさか和泉式部も、捨てた歌がこの様な経緯で後世に残るとは思ってもみなかったでしょうね(^^;)
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その他にも沢山の文化財が所蔵されています。
詳しく知りたい方は公式ホームページをご覧ください(^v^)